▶横中の野球部創設と横高野球部の黄金時代

近藤礼三氏(高8期)のエッセイ「吉田庫三校長と父のグローブ」で、お父上(近藤石蔵氏・中14期)の横中に纏わるエピソードが語られています。100周年時、記念誌『百年の風』の編集者の一人として大変興味深く拝読させていただきました。このエッセイに触発されて、資料をひも解き、その頃の吉田庫三校長と野球に関する逸話をまとめてみました。(高10期 上田 寛)

▶吉田庫三校長と父のグローブ

父・近藤石蔵(中14期)から聞いた横中に纏わるエピソードを書いてみます。(高8期 近藤礼三) 【その1、父が寄宿舎に入寮した理由】 京急中央駅から横高までは、今はバス…

1.吉田校長の逝去と河邊改革
吉田庫三校長は自ら作った「生徒心得」によって生徒の勉学及び精神生活を厳格に律してきましたが、大正11年4月中旬、生徒の「校長宅強訴事件」が起き、人格修養主義の教育も疑問視されるようになりました。吉田校長逝去(大正11年6月2日)の2ヶ月半後、鎌倉師範学校の河邊良平教頭が第2代校長として着任し、「河邊改革計画」がスタートします。改革第一弾として、10月20日、21日付で前校長の厳格な規則をすべて解禁する「示達」が出されます。

・10月20日 ①昼食後の合同体操廃止 ②野球禁止の解除 ③万年筆の使用許可
・10月21日 ①合羽と洋傘の使用許可 ②自転車の乗用許可(遠隔通学生に限る)


翌年4月には毎日提出を義務付けていた毛筆での日誌も免除となっています。これら一連の改革は生徒たちにとって衝撃的なものであり、歓声を上げたものと思われます。

2.野球解禁と野球部創設
大正初期の野球ブーム隆盛の中にあっても、吉田校長は頑として禁止の方針を崩しませんでした。それどころか、生徒たちが不入斗の練兵場のわきを通る時、「野球を見てはいけない」と強く命じていたのです。禁止のなぜかについて鈴木三郎氏(中12期)は、「校長は、教育の費用を最低限ですませるという信念を持っていた。グラブなど買わねばならず、当時、野球は贅沢なスポーツで、これによって誤った考えを起こさせてはならない、という判断からではないか」と、推定しています。

野球解禁に誰よりも驚いたのが生徒の親たちで、これまで「堕落のスポーツ」と決めつけられていた野球に没頭する息子たちに仰天したようです。「おやじは倅が不良仲間に入ったと騒ぎ出した。懲らしめのためとばかりに、東京の親類の家に一時預けられた」と近藤石蔵氏は苦笑する。当時のエピソードが、毎日新聞社『わが母校 わが友』に掲載されています。

河邊校長着任の翌12年3月、横中野球部が創設され、3学年生だった近藤さんのお父上も入部されたものと思います。

【横高野球部創設】第2代河邊良平校長(後列中央)、前列右のユニフォーム姿が若き日の山岡嘉次氏(中12期)、後列左から2人目は臼井部長

3.横高野球部2年連続で甲子園出場を逃す
昭和26年・27年の神奈川大会で、2年続けて準決勝へ進出しています。横高硬式野球部が最も甲子園に近づいた年として、野球部OBをはじめ、多くの卒業生に記憶されています。

►1951(昭和26)年準決勝、相手は鶴見高校(出場校50校)

横須賀 400001100│6
鶴見高 000000007│7

準決勝の対鶴見高戦は9回表までの6点リードを土壇場で逆転された因縁の試合。この試合があって県高野連は、コールドゲームの規定を「5回以後10点以上」と定めたとか。
翌日の決勝では、希望ヶ丘高が鶴見高を破り甲子園初出場を果たしている。因みに希望ヶ丘高は、練習試合で横須賀が6対2で勝利した相手だった。

►1952(昭和27)年準決勝、相手は法政二高(出場校50校)

対法政二高は、延長12回3X―2で惜敗。決勝は法政二高が湘南高を8-0で破り、初出場を決めた。勝った法政も敗れた横須賀も終始よく戦い、ボーンヘッドもなく文字通りの好試合であった。むしろチャンスは横須賀の方が多かったという。
2年続けて甲子園出場を逃したが、この頃が硬式野球部の黄金時代といえよう。

※ 僭越ながら近藤礼三氏(高8期)のエッセイ「吉田庫三校長と父のグローブ」の記憶違いと思われる2箇所の訂正と若干の説明をさせていただきます。
◆野球禁止の解除⇒1922(大正11)年10月20日
解除は、第12代 山岡嘉次校長(昭和41.9~昭和43.8)ではなく、第2代 河邊良平校長(大正11.8~昭和2.3)が着任されて間もなくです。
◆準々決勝⇒準決勝
横高野球史に残り折々語られる例の試合(9回7対6で逆転負け)とは、1951(昭和26)年の第33回神奈川県大会準決勝のことです。

【参考資料】
『横須賀中学校・高等学校80年史』
『百年の風』創立100周年記念誌
『わが母校 わが友』 毎日新聞横浜支局編

    ▶横中の野球部創設と横高野球部の黄金時代” に対して5件のコメントがあります。

    1. 廣瀬 より:

      当時の横高の野球部は強かったんですね。それにしても、1951(昭和26)年の準決勝の鶴見高校との試合は、劇的な試合だったんですね。近藤さんのお父さんが悔しがるのもムリはありませんね。ここで勝っていれば、甲子園に出ていたかもしれませんね。

    2. 石渡明美 より:

      山岡先生、入学時の校長先生でした。歳が分かっちゃいますね (⌒_⌒; 

    3. 近藤礼三 より:

      上田寛様、廣瀬隆夫様、
      亡父近藤石蔵が在学した横中、そして私達が過ごした横高の想い出を蘇らせて頂きありがとうございます。
      父石蔵は何よりも横中+横高を熱愛していたようです。
      横中時代の同窓の方々との生涯の付き合いは、私達の幼少の頃の記憶にも残っています。
      そして私達兄弟3人、4期、6期、8期の長期に亘るPTA活動は亡父の生涯で最も情熱を注いだ対象かも知れません。
      野球の応援では、横高が準決勝で対希望ヶ丘高そして法政二高に敗れた時の悔しがり様は一族の誰もが覚えています。
      それから当時は学校の施設拡張には、PTAのサポートが相当に必要であった時代のようで、当時の横高の校庭の狭さのため大津グランド設置、裏庭の校庭設置、プール設置など、我が事のように頑張っていた記憶が子供ながらに残っています。

      今回の亡父の若き日の想い出を蘇れせて頂き感謝するとともに、墓前に報告したいと思います。

      1. 廣瀬隆夫 より:

        近藤さんが記事を提供していただかなければ、このお話は、あまり知られることはなかったでしょうね。たいへん貴重でおもしろいエピソードをご提供していただき、ありがとうございました。お父様が、横高の発展にご尽力されたことも良くわかりました。また、おもしろいお話がありましたら投稿をお願いします。

    4. 匿名希望 より:

      コメント失礼いたします。
      私は野球とは無縁の部外者です。
      実はこちらで、名前が出ている、河邉良平は私の母方の親族にあたります。
      私の曾祖母の兄です。曾祖母の旧姓は河邉です。曾祖母は私の両親と同居していたので、私は生まれた時から曾祖母が亡くなるまで一緒に過ごしていました。曾祖母からはいろいろな昔の興味深い話を聞いて育ちました。
      そんな曾祖母は昭和54年10月に95歳の大往生でした。

      曾祖伯父が改革をしたことなど、知らないことも多く、この場にたまたま辿り着き、知ることができました。
      部外者の者かコメントして大変申し訳ありませんでした。

      横須賀高校の発展をお祈りしています。

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