▶横須賀市歌のすばらしさを探る(2)詩人 堀口大學について

(撮影 高23期 石渡 明美)

横須賀市歌の詩について解説する場合、歌詞に秘められている深い内容を探るために、何としても作詞者堀口大學本人について調べることを必要としました。(高11期 山田茂雄)

(1)堀口大學の名前の由来
 ペンネームかと思わせる名前の「大學」は実名で、明治25年1月8日東京・本郷に生まれる。、出生時、父堀口九萬一が大学生であったことと東京帝国大学(現東京大学)の近所に住んでいたことから命名されたと言われています。

(2)略歴
・1892年(明治25年1月8日) 長岡藩士 堀口九萬一の長男として東京市に生まれた。
・1894年外交官になった父が朝鮮へ赴任するため、家族は新潟県長岡町へ移り住んだ。母が23歳で早世し、以後は祖母に育てられる。
・1903年旧制長岡中学校(現長岡高等学校)を卒業、翌年、慶応義塾大学文学部予科へ入学した。
・1909年17歳の時、与謝野夫妻の新詩社に入り、短歌の技法を習得する一方、与謝野夫妻の助言で詩作も始めた。そして「スバル」「三田文学」などに詩歌を発表し始めた。
・1911年19歳の時、父の任地メキシコに赴くため大学を中退した。
・1913年父についてヨーロッパに渡り、青春の大部分を過ごした。この頃肺結核を患う。父の後妻がベルギー人で、家庭の通用語がフランス語だったためフランス語の習得に没頭し、フランスの詩や小説に親しみ、象徴派の詩の影響を受けた。以後も父の任地に従い、ベルギー、スペイン、スイス、パリ、ブラジル、ルーマニアと、青春期を日本と海外の間を往復して過ごす。スペイン滞在時はマドリード日本公使館で、マリー・ローランサンと交歓しギヨーム・アポリネール(20世紀初頭の最も重要な詩人の一人であり、また20世紀初頭の最も重要な前衛美術の批評家とみなされている。)を教えられる。
・1919年27歳で、処女詩集「月光とピエロ」、処女歌集「パンの笛」を刊行した。
外交官への道を断念し、詩作と翻訳に専心し、父の外交官退職とともに日本に戻り、フランス文学の翻訳・紹介に尽くし、その研究書を発表するなどして日本文学に大きな影響を与えた。特に1925年に出版した訳詩集「月下の一群」は大きな反響を呼んだ。
・1932年(昭和7年)小石川区(現・文京区西部辺り)に居を構え、6月に『昼顔』を発行するが発禁処分となる。
・1935年(昭和10年)に日本ペンクラブの副会長に推される(会長・島崎藤村)、
・1941年(昭和16年)に静岡県興津に疎開。翌年に師・与謝野晶子が死去し、青山で挽歌十首を捧げた。
・1945年(昭和20年)に被爆下の静岡を脱出し、新潟県妙高山麓(旧関川村)の実家に再疎開。秋には父が亡くなり故郷で葬った。
・1950年(昭和25年)に、疎開から引き揚げて以降は、神奈川県湘南の葉山町に終生在住した。
・1957年(昭和32年)に日本芸術院会員。
・1967年(昭和42年)、宮中歌会始で召人、(お題は「魚」)「深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失ふとあり」と詠んだ。生物学者である昭和天皇はたいそう喜んだというが、また一部には、天皇本人を目の前にしての批判(諌言)であると解する向きもある。4月に勲三等瑞宝章を受章。
・1970年(昭和45年)日本詩人クラブ名誉会員。日本万国博「日本の日」に式典歌として作詞した「日本新頌」「富士山点描」を発表し、11月に文化功労者。
・1979年(昭和54年)に文化勲章を受章。東大寺落慶法要式典歌作詞のため、奈良へ取材旅行。
・1981年3月15日、急性肺炎のため葉山町の自宅で死去。享年89。

(3)ヨーロッパ生活と詩人としての歩み
20歳代は外交官のお父さんの関係でヨーロッパ生活が長く、特にフランス文学の翻訳や詩人として歩み始め、少なからず文学者、詩人としての作風に大きな影響を及ぼしたものと思います。具体的には、横須賀市歌の解説で述べたいと思います。

(4)堀口大學全集での発見と学んだこと
インターネットで「堀口大學全集」があることを知り、横須賀市図書館に問い合わせたところ蔵書としてないとの回答。そこで住まいの「葉山町図書館」に問い合わせたところあるとのことで心弾ませて訪問しました。何と、全9巻+補巻3+別巻1、体裁 A5判・上製・函入・各巻平均770頁、全巻で1mに及ぶ膨大な全集がデンと構えていました。

長い時間をかけて一冊一冊ページを捲りました。まず第1巻詩集・歌集「月光とピエロ」の詩に出会いました。この詩は、横浜国立大学時代のグリークラブで清水脩作曲男声合唱「月光とピエロ」で良く歌いました。当時内容は難しくて良く理解できませんでしたが、この研究を通して内容を理解することができ、納得しています。(このことについては省略します)

その他、堀口大學の娘の堀口すみれ子著の「虹の館」(父との思い出を語った書)など関係する書籍が多数収納されていました。その中でも感激したのが堀口大學全書の第8巻p346に載っていた「横須賀市歌の作成にあたって」と題した以下の貴重な記録に出会えたことです。 付記として、昭和42年2月15日「広報よこすか」第206号と記されています。

(a)市内の見学を海からも山からも、くまなく見学した。
(b)資料も山ほど集めていただいて、デスクの上が狭くなって困った。
(c)着手してから歌詞ができるまで半年かかった。この間、市当局(当時の担当課は教育委員会社会教育課)は、間接的に直積的に激励して下さった。
(d)長野市長が作曲者團と私を招いて、1時間近く、市歌設定についての抱負と希望を説かれた。ひどく感激した。葉山に帰る車の中で、團氏と「これは全力を尽くさなければと思った」
(e)こうして意気込みが決まると、あとは歌い出しの一句が歌の成否を決定するだけの苦労だった。
(f)いい歌い出しさえ発見できれば、歌はそこからひとりでに、ぐいぐい伸び、楽々と、途中きわめて自然に、必要にして十分な内容を取り入れて進行してくれます。
(g)今回の場合、「白波を岬に砕け」何度も×を出しました。
(h)全体として、のびのびした歌詞がえられたのは、20数年来、作曲で苦労をかけ続けている、團君の手腕に対する安心感のお陰です。
(i)歌詞の字脚の多少の不揃い、團君の楽才は、苦もなく乗り越えて、いつも名曲を作ってくれる。お陰でこちらは遠慮なく存分な文言が使えるわけです。

(5)娘 堀口すみれ子が語る父親像 
堀口大學の人柄については、娘の堀口すみれ子が婦人雑誌「ミセス」に連載したものをまとめた本「虹の館」に書かれているので紹介します。
(a)堀口大學は、優しく、恋い多き人で、82年間で父の心に宿った人は数え切れない。その一人が、1915年、外交官であった父親と共にスペインのマドリッドに滞在した時、9歳年上の画家のマリーローランサンと知り合い、たちまち意気 投合して、翌日から彼女に絵を習い始めた。片想いと推測します。

(b)堀口大學の結婚は47歳の時で、妻サマノは19歳の時に結婚(28才差)

(c)兄弟は2人兄弟で兄は昭和20年生まれ、残念なことに21才の大学生の時に山 岳遭難で逝去。長女すみれ子は、堀口大學53歳の時の子供で、とても可愛がっていた。

(d)すみれ子命名の詩 
すみれの花の美しいすみれの花のつつましく 
幸くて(さきくて)育てすみれ子よ花の乙女よ

(e)子煩悩
・無責任くらい何も説教しない、大声でしかられたこと、ぶたれたことない。
・すみれ子が元気で、機嫌良く、楽しんでいれば父は大満足していた。
・中、高の修学旅行、目的地に着く前に父からの手紙が届いていた。
・嫁ぐ時「おめでとう、よく覚えていておくれ、断腸の思いで君を出すのだよ」「いやになったら、いつでも帰っておいで、待っているよ」
・父とすみれ子の夫は、取り戻すのにたっぷり5年の歳月がかかった。
・初孫、大學80歳の時、毎日病院に見舞いに来た。

(f)花や木をこよなく愛し、植木屋さんを困らせるくらい自分が気に入った木を沢山庭に植えた。

(g)2つの詩
「不可能も」(マサノと結婚できるようになったときと思われる詩)
不可能も可能でした、清らかなわたしの乙女よ、
欲念も美しかった、白ばらのおん身のゆえに。

「箱がき」(すみれ子が嫁ぐときに書いた詩)
愛用の色絵古久谷 なでしこ文様の三角小皿 欠けたのもまじる四五枚
よき妻に、よき母親に なった後にも時々は 取り出して使っておくれ
二九 十九の君が春の日 だんらんのゆうべゆうべの 父母の思い出草に

この詩で「二九 十九の君」という解釈がどうしても私にはできなかったが、堀口大學は隠語(特定の専門家や仲間内だけで通じる言葉や言い回しや専門用語のこと。)を使用することを突き止めた結果、二九は、二×九=十八で18歳の娘盛りと解釈することによってこの詩の解釈ができました。

(6)横須賀市歌の内容
1.白波は 白波は 岬にくだけ
光る風 光る風 台地にあそぶ

半島の 半島の 只中占めて
溌剌と わが横須賀は
太陽の前に生きたり

前向きに 前向きに 明日を行く手に
溌剌と わが横須賀は
太陽の前に生きたり

【解説】
(a)堀口大學が作詞をする時に一番煉ったという初めの歌詞は、横須賀市が三方海に囲まれてる特徴を良く表しています。
(b)横須賀市の目指す姿勢を「溌剌と」とした言葉で語り、1番のシンボルを地球に熱・光を与え万物の生命をはぐくむ「太陽」としているところにスケールの大きさを感じます。
(c)横須賀市が存在する概要と目指す方向を示しています。

2.黒船の 黒船の 浦賀の海も
燈台の 燈台の 観音崎も

そのままに そのままに 維新日本の
飛躍への 目醒めの歴史
今ぞ知る意義の尊さ

百年の 百年の 国のあゆみに
飛躍への 目醒めの歴史
今ぞ知る意義の尊さ

【解説】
(a)2番は、深い意味を感じます。横須賀市の開拓に貢献した外国人を3人挙げると、ウイリアム・アダムス(イギリス)、マシー・ペリー(アメリカ)、フランソワ・レオン・ヴェルニー(フランス)と言えます。2番の歌詞では、100年の歴史とシンボルとしてぺーリーの黒船来航とヴェルニーが制作した観音崎灯台を示しています。
(b)「ペリー来航、観音崎灯台」の功績を掲げることで、16世紀後半~17世紀初頭に、英国の石工・建築家たちの職業組合に端を発した高度な知識と技術を多国間の国家プロジェクトに携わり国際的な助け合いの手法を創出しヨーロッパに広めた「フリー・メイスンリーの精神」の暗示を感じます。
(c)先人が築いてきた横須賀市の意義の尊さを歌っています。

3.たぐいなき たぐいなき 天与の地 の利
踏まえての 踏まえての 近代都市ぞ

日に月に 日に月に 進む産業
颯爽と わが横須賀は
良港に造船栄え

埋立てに 埋立てに 工場競う
颯爽と わが横須賀は
良港に 造船栄え

【解説】
(a)高度経済成長期時代(いざなぎ景気)に制作されたことを物語っている歌詞です。
(b)シンボルを、「良港、産業」として、埋め立て、産業が進み、造船が栄え、と横須賀市の人口50万都市を目指した思いが歌われています。
(c)現在は、現実離れしているとのことであまり歌われませんが、横須賀市の将来像として、願いをこめて歌うことお薦めしたい。

4.うるわしき うるわしき 自然のめぐみ
地に満つる 地に満つる 観光都市ぞ

樹を愛し 樹を愛し 人はすこやか
遠くとも 訪い来て見ませ
北限に匂う浜ゆう

荒崎に 荒崎に 岩噛む波を
遠くとも 訪い来て見ませ
北限に匂う浜ゆう

【解説】
(a)横須賀市の特徴である、三方海に囲まれた自然の豊かさを歌っています。
(b)ここで突如「樹」がてできますが、堀口大學のヨーロッパ生活の影響と本人が常日頃樹木をこよなく愛していたことからと解釈できます。
(c)ヨーロッパでは、「樹」というものを、森を愛する精神、国民の精神を束ねる支柱のような存在、崇高な精神が培われる場所として捉えられています。
(d)シンボルは、「樹」と横須賀市の花「浜ゆう」

5.未来こそ 未来こそ 横須賀の夢
大いなり 大いなり われらが夢は

黒潮に 黒潮に わたすかけ橋
天そそる 横断路線
ひと跨ぎ東京湾も…

大いなり 大いなり われらが夢は
天そそる 横断路線
ひと跨ぎ東京湾も…

【解説】
(a)3番と同じく高度経済成長期時代を物語っています。
(b)シンボルは、「渡す架け橋」です。
(c)ここでの「黒潮」(日本海流)もスケールの大きさを感じます。
(d)現在は、現実離れしているとのことであまり歌われませんが、横須賀市の将来像、夢として捉え、願いをこめて歌うことお薦めします。

【全体を通して】
(a)壮大な1~5番までの歌詞ですが、3つの部分から成り、各番にシンボルを掲げ、内容が明確であることが特徴です。
(b)堀口大學が「横須賀市歌の作成にあたって」で述べているように、横須賀市の特徴を生かすために膨大な資料をもとにご苦労されていることが見受けられますが、横須賀市の歴史と将来の夢を語り、感謝する気持ちを持ちながら、樹を愛し健やかに、市民が一緒になって、前向きに、颯爽と進もうと、勇気づけられるスケールの大きな歌詞となっています。

次回は、作曲者の團伊玖磨について述べます。
▶横須賀市歌のすばらしさを探る(3)作曲家 團 伊玖磨について

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