▶加山雄三を讃えて、そして「恋は紅いバラ」(高22期 松原 隆文)

2021年11月4日 加山雄三 Wikipediaより

■ 恋は紅いバラ
令和四年八月の終わり頃から加山雄三の「恋は紅いバラ」を猛烈に練習した。毎日、朝夕入浴時運転中寝る前、思いつけば唄っていたから数百回練習したかもしれない。歌の上手い下手はさておき、私は音程には自信があり、この曲唄いたい!と思えばまず音程だけは習得出来る。しかしこの歌は意外と難物だ。半音を多用しているので正確な音程が取りにくい。十月頃、漸くしっかり唄えるようになった。(高22期 松原 隆文)

実はこの曲には思い出がある。私が中学2年の夏だったと思う。親しい同級生3人で初めて横須賀に映画を見に行った。お目当ては東宝得意の特撮映画、「フランケンシュタイン対地底怪獣バルゴン」だった。この映画、怪獣映画としては二流だった。やはりゴジラ、ラドン、モスラの三大怪獣に比べて見劣りすることが明らかだった。ただ何分子供だ。初めての映画館でわくわくしたものだ。当時はどの邦画も二本立てだった。それが加山雄三の「海の若大将だった」この映画は全くお目当てではなかったが、見るともなく見て意外と面白かった。そしてこの映画に出てくる星由里子さんが何と綺麗なこと!世の中にこんな美しい女性がいるのか!と驚いたことを今でも覚えている。

何よりもこの映画の中で唄う「恋は紅いバラ」がとても素敵だった。当時の日本の流行歌では考えられない垢抜けしたメロディで、アメリカのポップスのような曲だった。私は子供の頃からアメリカのヒット曲を聴いていたので、この歌をすぐ受け入れることが出来た。まさに思春期にさしかかる少年の初い気持ちを捉えて放さなかった。加山雄三はこの後すぐ「エレキの若大将」で「君といつまでも」を歌い、大ブレークした。私は、「 俺はもっと前から加山雄三を知っているんだよ!」というおかしな優越感を当時から持ち続けていた。

私が加山雄三の曲で一番好きなのはこの「恋は紅いバラ」だ。大体の人が「君といつまでも」を挙げるだろうが、私は断然前者がいい。何か男の、はにかんだ心情を見事に歌にしたような名曲だと思っている。何よりもメロディがとても素敵だ。それに比べ、「君といつまでも」を初めて耳にしたときは、聴くこと自体恥ずかしかった。あまりにもストレートではないか?中学生の私にはちょっと聴くに堪えなかった。同年、Kayama Yuzo Premium Bestというアルバムを買った。年齢を考えて、もうCDは原則買わないことにしている。しかしもう一度加山雄三を聴き直してみたくなってつい手を出してしまったが、このCDドンピシャの当たりだった。何よりも、音源が当時のままなのが一番嬉しい。音があまりよくないがそんなことは問題外だ。またこのCD,オーケストラが実に美しい演奏をしている。正に出色盤だ! 改めて聴き直してみると、みんな素晴らしい曲だ。「ある日渚に」なんか最高だ。

ところで、この「恋は紅いバラ」を最近唄うようになった切っ掛けは全くの偶然である。ここからはひどく長い前置きになるので、気が向いた人だけに読んでもらいたい。
① 実は令和4年5月22日の日曜日夜九時頃、Yシャツを畳みながら、N響アワーを付けた。そこで驚嘆すべきシーンに出くわしてしまった。何となんと十一歳の少女がN響とメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を弾いているではないか!その音色のなんと美しいこと。私は思わず聴き惚れてしまった。しかもこの少女、可愛い上にマナーが最高に良い!お辞儀の仕方がなんとも可愛くて謙虚だ。早速パソコンで調べたら、その名も吉村妃鞠!どうやら知らないのは私だけなようだ。そしてこの日から彼女の演奏をYouTubeで聴く毎日が始まった。クラシック好きな年長の友人K氏にも早速この演奏家の存在を伝えた。数日して彼に電話したらやはり病みつきになっている様子であった。「CD出たら買いましょうね!」と言ったら、「いや、あの子は、映像で見るのが最高ですね!」という回答だった。

そして、この妃鞠さん、嬉しいことに得意のレパートリーがパガニーニなのである。いずれこのブログにも載せてみたいが、私はパガニーニの曲が大好きだ。バイオリンコンチェルト第1番を始め、カンタービレ、ラ・カンパネラを弾いている映像がたくさん出てくる。私はこれらを見るに度に感動で泣いていた。とにかく妃鞠さんは素晴らしいの一言に尽きる。彼女は昨年、史上最年少でジュリアード音楽院に入学したが、順調に成長すれば、歴史に名を残す演奏家になるのではないか!我々ファンの期待と夢は広がる一方だ。

② ここまで書いても、何ら、「恋は紅いバラ」とは繋がらない。読者にはもう少し我慢されたい。妃鞠さんを毎日聴いていると嬉し涙の連続になる。泣いてばかりいるとやや疲れてくる。そこで少し気が抜ける曲を聴きたくなった。季節は夏だ。もうベンチャー以外はない。私はベンチャーズの大ファンだ。CDも10枚ほど持っている。彼らが1965年に来日したときはテレビに釘付けになって見ていた。このライブはCDになっていて、もちろん時々聴いている。ベンチャーズの演奏もやはり初期のものほど良く、代表的アルバム 「The Very Best of The Ventures Kayama Yuzo Serection」なんか最高だ。ファンならきっと分かるだろうから好きな曲を何曲か挙げてみたい。

まず、ウオークドントラン、これは外せない。
ダイヤモンドヘッド、日本で初めに大ヒットした曲だ。
ランナウエイ、ノーキ・エドワーズのリードギターが小気味良く唸りをあげて冴え渡る!ドン・ウイルソンのリズムギターも絶妙だ。
ブルースター、これ、とても美しいメロディだ。最後の転調するところなんかもう最高!
10番街の殺人、(個人的には)ベンチャーズの最高傑作ではないか!
青い渚をぶっ飛ばせ、これ、冒頭、バイクかなんかの音が入る。もうウキウキするような曲だ。夏の暑い日はこれを大音量で聴くのが最高に心地よい。
そして、お決まりのキャラバン!、これ、ライブの最後に必ず演奏するが最高に盛り上がる!
他にも、クルエルシ-、ドライビングギター、ワイプアウト等枚挙に暇がない。

また注目すべきは、ベンチャーズは加山雄三の曲を好んで弾いていることだ。ベンチャーズの演奏する「君といつまでも」や「夜空の星」は、エレキ曲としても大ヒットした。そして何よりも、「ブラックサンドビーチ」!これ、日本人のエレキの曲の最高傑作だが、なんと加山雄三が作曲したものだ。加山雄三はベンチャーズと親しいが、このバンドが有名になる前からすでに注目していたというから、凄い慧眼だ!また加山雄三はエレキギターが素晴らしく上手い。下品な表現をすれば、エレキギターで十分飯が食える!というほど達者だ。

前置きが異常に長いが、もう少し我慢されたい。ベンチャーズのCDを沢山持ってはいるが、YouTubeで聴くのも愉快だ。映像があるから楽しいのだ。また私はドラムが好きだ。実は、徳川慶喜公を自費出版した時に、手間の係る校正を引き受けてくれた友人の高橋克己氏がエレキギターの名手で時々バンドを組んで演奏会をやっている(このブログでも彼のエレキ歴を自ら披瀝しているが)。私はドラムを習い直して克己氏とベンチャーズを演奏するのが夢だった。

実は高校の時ブラスバンドに所属していて、スネアドラムの基本は出来ている。あとはセットドラムをマスターするだけだが、ベンチャースやスイングジャズを若いときから聴いているので、曲想やメロディはすぐ分かる。あとは手足を動かすだけだが、かなり自信があった。ドラムは。老化防止にも最適ではないかと考えていた。手足さらに頭も同時に使うからだ。唯一心配なのは私は体が硬いので足がしっかり動くかどうかだ。また諸事情があり練習等の時間を確保できるかどうか?少し迷っていた。

しかしこの夢は無残にも打ち砕かれてしまった。練習用の太いバチを買って濡れ雑巾を毎日叩く猛練習をしたのが良くなかったのか、右腕が軽い腱鞘炎になってしまった。更に左手の親指付け根が痛んでしまった。年には勝てないようで諦めるほかはない。実に残念だ!

③ 話を元に戻そう。ベンチャーズをYouTubeで見ていると、必然なのか加山雄三が出てくる。ベンチャーズとの共演のシーンやランチャーズをバックにエレキを弾くシーンだ。そんな中で加山雄三が隣に座って市川由紀乃という歌手が唄う「恋は紅いバラ」が飛び込んできた。この曲を聴くのは何十年ぶりか。しかも別人が唄うのだ。なんだか興味が湧き、クリックしてみた。するとこの由紀乃さんのなんと上手なこと!私はびっくりしてしまった。大体流行歌手は他の歌手の持ち歌を唄えない。仮に唄ってもやたらと崩したり変に溜めて唄ったりして、ほとんど聴くに堪えない。しかしこの由紀乃さん、原曲のとおり、寸分も違わずしかも情感豊かに唄い上げるのだ。加山さんは台詞の部分だけを歌ったが、多分由紀乃さんには感心していたのではないか。私が「恋は紅いバラ」を数十年ぶりに再認識して唄い始める切っ掛けとなったのは、加山雄三本人ではなくこの市川由紀乃さんであった。そしてこの日から毎日「恋は紅いバラ」を唄うようになった。さらに加山雄三の魅力を再認識し始めたのである。

この人の曲は泥臭さとは全く無縁で、垢抜けして常にピユアだ。演歌っぽい要素や陳腐なしがらみ等が全くない。要するに、純粋に男の心情を表現する彼の歌は、従来の日本の流行歌とは全く異質な存在なのだ。むしろ彼の歌はアメリカのポップスに近いのかもしれない。彼は決していわゆる「上手い」歌手ではない。しかし自分の心情をそのまま歌にして表現するのだから、上手い下手は関係ないのだ。また彼の歌にはセリフが入る事が多々ある。大体、日本人は曲中のセリフが苦手だ。サマにならないのだ。しかし加山雄三は、曲中のセリフが実に素晴らしい。「君といつまでも」のセリフなんか、他の歌手が唄ったら吹き出してしまうか、あるいはキザで聴くに堪えないだろう。

■ 加山雄三という個性
今まであまり考えたことがなかったが、加山雄三という人は、戦後初めて日本の若者にある種のモデルを示した人ではないか。そう考えると彼の存在はとてつもなく大きいのである。日本の映画界は戦後(民主主義の)新体制になってもしばらくの間、若者のモデルを示すことが出来なかったが、昭和も30年代に入り、漸くその兆しが出始めてきた。その筆頭が石原裕次郎であった。彼は「太陽の季節」や「狂った果実」で、初めて戦前のモラルをぶち壊した。

戦前の若者のモデルは言わずと知れた軍国青年である。帝国主義下では当然のことである。他方、帝国主義になじめない(戦前の)若者は、思想的相克に悩み、恋愛に悩む。つまりこの悩む若者達は総じて病弱で行動力がない。典型的な青白き秀才だ。石原裕次郎は、そういった青白き秀才達とは全く無縁の健康な若者を演じた。しかし彼が演じたのはいわゆる不良であった。なぜ不良だったのか?それは昭和30年のはじめはまだ民主的な市民社会が成熟しておらず、何よりも大学生の人数も多くはなかった。健全な若者のモデルを示す基盤としての市民社会が未熟だったのである。だから当たり前の若者を描く事が出来なかったのである。結局不良の世界を借りて、戦前のモラルもぶち壊すほかなかったのである。要するに石原裕次郎は映画スターではあり得ても若者のモデルではなかったのだ。

これは小林旭を見るとさらにはっきりする。私は小林旭が大好きだ。しかし彼の映画は荒唐無稽で現実性や日常性がまったく無い。虚構の世界そのものだ。大体昭和30年代になって馬に乗る訳がないが、彼は馬に乗って登場する。そして酒場の地下で一曲唄った後、必ずトランプをやって最後は大立ち回りをする。大体日本の賭博は花札かサイコロではないか?そもそも当時の酒場の地下に賭博場があったのかどうか知るよしも無いが、さすがにトランプはやってなかっのではないか。また最後のクライマックスは派手な拳銃の打ち合いになる。どう考えてもあり得ない世界だ。旭の映画は非日常の極致だった。

私が小学生の時、三崎に映画館が三つあった。通学の途中日活のポスターがいつも貼ってあり、言わずと知れた渡り鳥シリーズだった。旭が拳銃を構え、その向こうに宍戸錠がやはり拳銃を構えている。旭のそばにはいつも浅丘ルリ子がいて、端の方にヌードダンサーの白木マリが怪しいポーズで立っている。この映画を見たくて、母親に「あれを見たい」と言った。母の回答は「あんなものを見ると不良になる!」の一喝だった。

大分脱線したが、要するに石原裕次郎や小林旭は紛れもなく映画スターだが、それはあくまでスクリーンの中でのことだ。その意味では、市川雷蔵の眠狂四郎や勝新太郎の座頭市と変わらないのだ。総じて我々見る側は、映画に非日常を期待する。日常はつまらないし刺激が無い。だから、時代劇(これは過去の世界だから、非日常100%!)、アクションもの、刑事物、怪獣映画、スペクタクルなど、我々の身辺にはあり得ないものを映画に求める。

しかし加山雄三はその若大将シリーズで、従来の映画の主役と全く異なる個性を示した。そこに出てくる加山雄三演じる田沼雄一は、ごく普通の大学生で、日常的な生活を送っている。但し「二枚目でスポーツ万能、女性にモテて、知的、性格も素晴らしい!」という設定である。この映画では、拳銃もトランプも派手な殴り合いのアクションも出てこない。しかしそんなものは無くてもこの映画は圧倒的な支持を受けた。スポーツに熱中し、純粋で歌が上手く、女性にモテるが不器用でなかなか告白できない、という若大将は当時の若者からすると理想的な人物像であった。これを見るもの皆がこの若大将に憧れ、自分もこうなりたい!と思ったのではないか!その背景には高度成長期に入った日本社会の安定化と大学生の増加等があったのであろう。

要するに、日本映画界は、この時期に至って漸く、若者の日常を映画のテーマにすることが可能になったのである。しかし日常を扱う映画となると、その主役がよほど魅力が無ければ、客は入らないことが容易に想像される。その意味で、加山雄三は正にドンピシャの男そのものであった。加山雄三という人は、二枚目でとても知的だ。何よりもがっしりしていて健康的。しかも人なつっこくシャイだ。スポーツ万能でピアノが弾け、ギターもとびきり上手い。まあケチの付けようのない男だ。彼は、若大将を演じるについてもあまり違和感が無かったのでは無いか?演技など不要で、普段の等身大の自分をそのまま出せば良いだけだったのだろう。我々がこの映画を見ていてごく自然に受け入れられたのはそのためだ。

■ 結語
加山雄三はその出現以来、類い稀な個性として輝き続け、日本の若者の憧れであり続けてきた。それは虚構ではなく、彼の本質そのものが素晴らしいからである。それは単に芸能界などと言う狭い世界を超えた日本全体の至宝とさえ言えるのではなかろうか。昨年でコンサートを終えたそうだが、加山雄三さんには、いつまでお元気でいてもらいたい。我々の永遠の若大将として!

    ▶加山雄三を讃えて、そして「恋は紅いバラ」(高22期 松原 隆文)” に対して3件のコメントがあります。

    1. 22期 伴野明 より:

      楽しく拝読させていただきました。高22期 伴野です。文中でハッと気づいたのが、「加山雄三という人は、戦後初めて日本の若者にある種のモデルを示した人ではないか」、この部分です。
      映画の若大将は確かに少々リッチな商人の息子という設定ですが、庶民離れしている訳ではなく、
      どこにでも居そうなキャラでした。彼の映画を見ると、妙な満足感がありました。彼の最大の功績は「日本は平和で安定した良い国だ」というポジティブなイメージを作り続けた事ではないでしょうか。その対極が「学園紛争」ですが、同じ時期に「若大将シリーズ」が好評を博していたのです。現代を見ると、「若大将」は居ません。あの時代だから生まれた特異な存在なのでしょうか。

    2. 松原隆文 より:

      多様化社会になり、価値観も様々になりました。
      なかなか現代社会では国民的ヒーローが出にくいのでしょうね。
      あえて言えば大谷翔平でしょうかね。

    3. 高橋克己 より:

      松原さんの加山雄三論に賛同しつつ、石原裕次郎との比較において私なりの補足を述べてみたい。
      調べてみて改めて驚くのは、裕次郎(34年12月生)と加山(37年4月生)が3歳しか違わないこと。二人とも慶応なのでキャンパスですれ違った可能性すらある。
      だのに、裕次郎が加山より大分年長に感じられるのは、映画への本格デビュー時期にほぼ10年の差があるからではなかろうか。すなわち、「太陽の季節」の封切りが56年5月であるのに対し、「エレキの若大将」のそれは65年12月だった。
      裕次郎のデビュー当時、まだ30代前半だった私の母の彼への入れ込み様は相当なもので、しばしば私を安浦のピカデリーに連れて行った。記憶にあるのが57年の「嵐を呼ぶ男」なので小1のことだったか、煉瓦で手のひらを砕かれるシーンでは思わず眼を覆った。
      つまり、裕次郎の主なファン層は「団塊の世代」あるいは「ベビーブーマー」の母親の世代であった。
      他方、「エレキの若大将」が封切られた65年の1月に何があったかといえば、ベンチャーズ2度目の来日だ。しかもドン・ウィルソン、ボブ・ボーグル、ノーキー・エドワーズ、メル・テイラーの定番メンバーである。ちょうど加山ブームの前座を務める格好になった。
      そしてこれに熱狂したのが、二十歳前後になろうとする「団塊の世代」であった。
      「団塊の世代」が、映画という虚構の中の加山と変わらない彼の実像に自らを重ね、ああなりたいと憧れて、彼を真似るのは必然だったし、頑張ればそれなりに手の届く部分もあった。
      一方、「団塊の世代」の母親たちが裕次郎に夢中になったのは、きっと一人の女性としての恋心からであって、それは所詮儚く終わるもの、虚構は虚構に過ぎなかった訳である。
      「団塊の世代」を挟んだこのファン層の変化いうべき現象は世界に目を転じても同様で、エルビス・プレスリー(35年1月生)とビートルズ(40年7月~43年2月生)についてもいえる。前者のデビューが50年代半ばなのに対して、後者は63年1月の2作目「Please Please Me」だから、その時期と時間差は裕次郎と加山のそれに近い。
      もちろんエルビスの物真似をする者も大勢いるし、その楽曲(多くはカバー曲)も大ヒットした。が、ビートルズの様に世界中にギターを弾きながら歌う若者のバンド(日本のGSブームもそのひとつ)を数多生むような現象は、エルビスでは見られなかった。
      つまりは、「団塊の世代」(それに続く世代も)がひょっとするとその一部分に手が届くかも知れない存在だったことが、加山雄三と石原裕次郎の違いではなかったかと思うのである。 以上

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