▶横須賀高校柔道部随想「記恩ヶ丘は重かった」(高22期 高橋 克己)

柔道部に入ったのは1年の5月頃だったか。中学からのバンド仲間で、偶さか同じ4組になった佐々木滋(歯科医兼ライブハウス経営)に誘われてのことだった。小学生の時から肥満児だった彼は、猪熊功を輩出した汐入の名門道場に通っていた。猪熊は大相撲の元小結広川(泰三)と不入斗中学の同級で、同校正門前で歯科医院を開業していて校医でもあった佐々木の父親が、肥満解消のため息子を渡辺道場に通わせた(というのは私の推測)。(高22期 高橋克己)

入部した日か翌日、つまり受け身も儘ならぬうち、道場と続きの畳の敷かれた十畳ほどの部屋で、3年の今給黎・小倉両先輩から「五十本投げ」の洗礼を受けた。体格は当方が二回り大きかったが(175cmx70kg)、ポンポンポンと休む間もなく投げられた。確か今給黎さんは背負い投げ、小倉さんは内股だった。これはエライところに入ってしまったと後悔したが、今こうして思い出してみると、私より両先輩の方が余程エラかったに違いない。

既に林和弘、諏訪圭司、出川薫、山際英男が入部していて、山際が同じ4組だったことも私の入部動機になった。後にも新開和寿、小崎雅彦が加わり、短期間だが鈴木章や4組の何人か道着に袖を通した。が、卒業アルバムの柔道部の写真を繰ると、林、諏訪、出川、山際、佐々木、新開、小崎、そして私の8人が顧問の森先生と一緒にレンズを睨んでいる。

入部直後には10数回しかできなかった腕立て伏せと腹筋も、夏合宿を経て50回、明けて1年生を迎える頃には100回こなせるまでになった。体も177㎝x80kgまで大きくなった。それまでお世辞にも熱心とは言えなかった稽古も、下級生が入るとなればちゃらんぽらんという訳にはいかない。何しろこちらは全員が茶帯(1~3級)なのに、1年には一人黒帯がいたのだ。

昇段について書く。昇段審査では、先ず級なしの白帯同士で戦い、累計5勝すると3級になり茶帯が締められる。相手は市内の高校生だ。3級同士の5勝で2級、2級同士の5勝で1級、1級同士で5勝すると晴れて初段、黒帯だ。審査は場所を変えて行われるが、渡辺道場が多かった。初段までは25勝必要だが、毎月あるので都度2勝すれば1年で黒帯に辿り着く。私も2年になってひと月後、黒帯を締めた。

当時の武道館は柔道・剣道・レスリングが兼用で、一度に2部しか使えない。が、どうやり繰りしていたかの記憶がない。今思えば、レスリングはマットを、柔道は畳を敷く必要があるが、板の間で稽古できる剣道部が定期的に体育館を使っていたかも知れぬ。剣道部と一つ屋根の下で稽古するのは実に苦痛だった。やたら騒がしいからだ。剣道では「面」とか「小手」とか、打ち込む箇所を叫ぶのが決まりだと当時は知らなかった。さすが武士道。

柔道の稽古は畳敷き、雑巾がけ、黙想、準備体操、腕立て伏せ、腹筋、うさぎ跳び、エビ(仰向け前進)、ボート(腹這い前進)、受け身、打ち込み、乱取り、整理体操の順で2時間ほど。夏の合宿には諸先輩が指導に来てくれた。長老は猪熊さんより少し年長の高田先輩。普段は部員同士で教則本を見ながら技を研究するだけの身には、先輩らの厳しい指導は身に沁みた。

中でも東京五輪から4~5年しか経っていない猪熊先輩には、2年の夏も3年の夏もしごかれた。2年の時の3年は両手に余るほどだから、総勢で25人以上になる。それを猪熊さんは「10回ずつ回せ」と。つまり、腕立て250回、腹筋250回という訳だ。何しろご本人自ら、右手左手と片手腕立てを何十回も平気でするのだから、我々がこなさい訳にいかないのだ。

猪熊さんとの7分乱取りがまたすさまじい。私は2年の12月からレスリングと柔道の二足の草鞋を履いた。レスリングは、2月に横高で開催する県大会に無差別級で出るよう佐々木正純先生に強要されて始めた。結果、県大会で2位、横浜開催の6月の関東大会でも銀メダルを獲った。その際、宿舎の氷川丸では減量中の他の部員の皿も平らげたので、体重計の針が90kgを超えた。

猪熊さんはその90㎏をいとも簡単に右へ左へと投げ飛ばすのだ。しかも剣道と同様、「右の体落とし」「左の一本背負い」と耳元で告げながら技を掛けて来る。が、関東大会銀が五輪金に抗えるはずもない。結局、7分間のうち立っていられたのはおそらく2分間ほど、3分は抑え込まれ、残りの2分は宙を飛んでいた様に思う。

ここで漸く「記恩ヶ丘は重かった」話になる。当時の私は6食で、朝食、早弁、昼は学食カレー大盛、下校時は白バラでコロッケパンとチェリオ、夕食、そして夜食といった具合。佐々木も負けずに食べ、学食では彼のうどんと私のカレーの早食い競争をよくやった。挙句、佐々木も88kgに。

稽古は畳の上だけに限らない。時に体育館でのウェートトレーニングや「記恩ヶ丘」前の坂や階段を使った身体作りをした。後者は、両手だけで坂を上がる「手押し車」と階段を負ぶって上がる「おんぶ」。両方とも二人一組だから自ずと体重が近い者同士の組み合わせになる。90kgの私と88㎏の佐々木で178㎏、他方、60㎏の諏訪は55㎏の出川とで115㎏、彼我の差63㎏は大人一人分だ。私は佐々木に「おんぶ」されて階段を上るたび、後ろに転げ落ちたら死ぬかも、と生きた心地がしなかった。

幸い私も佐々木も6回の年男を終えた。が、出川、諏訪、そして山際の3人は66歳と67歳で相次いで逝ってしまった。特に山際とは、佐々木も一緒に「1年4組バンド」や麻雀など勉強以外は何でもやったので思い出は沢山あるが、本稿は「記恩ヶ丘は重かった」話にとどめる。以上、記憶の限りなので錯誤があればご容赦下さい。また一部敬称を略しました。

    ▶横須賀高校柔道部随想「記恩ヶ丘は重かった」(高22期 高橋 克己)” に対して3件のコメントがあります。

    1. 高橋揚一(高22期6組大西昭先生学級) より:

      充実していましたね。
      私は水泳部だったので稽古は拝見できませんでしたが、校内レスリング大会で第二体育館があるのを知りました。
      やはり帰りは白ばらのチェリオで癒やされましたか。
      もう50年以上も昔。感慨深いです。

    2. 伴野 明 より:

      「記恩ヶ丘は重かった」の題名で引っ張り込まれました。何とも「興味津々」のお話でした。
      猪熊先輩がご指導されたとは。……恐ろしい柔道部だったのですね。
      事実が書いてあるだけなのに創作した文章より面白い。一気に読んでしまいました。

    3. 高橋克己 より:

      はい、確かに「身体」は充実してました。

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