▶私の3・11(高22期 高橋 克己)

奇跡の一本松 Wikipediaより

今年もまた3・11が来る。この時期には2・26、2・28、3・11と、歴史に残る事件が起きた。いま読んでいる北村滋著「外事警察秘録」(文藝春秋)に、私が最も感動した3・11に纏わるエピソードが書いてある。が、それは後で述べるとして、まずは私の3・11を書く。

2011年は多忙な日々で明けた。3年に1度の「中期経営計画」策定の年に当たっていたからだ。経営企画室の長として、10ほどの事業部門から集まった計画書をとりまとめ、それらを基に各事業部長から経営幹部がヒアリングする会議の司会役を担っていた。

先日、古い段ボール箱からその年(本社勤務最後の年)のスケジュール帳が出て来、1月の頁に会議日程が記されていた。24日に施設で長患いしていた母が危篤になり、病院に駆けつけると同時に息を引き取ったが、会議は前日までにすべて済んでいた。24日の欄に母の記述はない。

その後、3・11を経て、7月には還暦を迎え、それからしばらくして、12年1月1日付で台湾子会社への出向の内示を受けた。旧正月の台湾では1月1日は平日なので、初出勤に間に合うよう12月30日に高雄空港に降り立ち、これから何年過ごす判らぬ台湾の土を踏んだ。

■ 3・11
その日は朝からお台場のビッグサイトの展示会を訪れていた。社のブースでアテンド社員を労い、他社の展示を見て回って、2時頃に「ゆりかもめ」で新橋へ。新橋駅に着き、エスカレータで地上に降りるまであと1~2m、今まで経験したことのない大きな揺れが来た。慌てて駆け下りたか飛び降りたか、とにかく地面に足を着いたが立っていられない。

ガードレールにしがみついてしゃがみ込み、周囲を見渡すと、ビル群が右へ左へと弓のように撓(しな)って、今にもポキリと折れそう。10分ほどそうしていただろうか。立ち上がって汽車ポッポ側に移動し、近くの建物から出て来た人たちに混じって電車が動くのを待つことに。

小一時間ほどそうしていたが、電車は一向に動く様子がないし、どこで地震が起こったのかも判らない。家内や子供たちに携帯で連絡を取り、互いの無事を確認したが、オフィスへの電話は繋がらなかった。ここは会社(天王洲アイル)まで歩くしかない。

道すがらのビルに損害はないようだ。三田まで来て、床屋のテレビがニュースを放映していたので、20分ほど散髪しつつ、事態の凡そを理解した。いま思うと夢のようだが事実だ。床屋を出ると雨がぽつぽつ来たので、コンビニで折り畳み傘を買い、会社に着いたのは6時前だった。

オフィスは21階建てのビルの19階。会社泊りを覚悟し、1階のコンビニで何か買っていこうとしたが品物が殆どない。残り物を買い、レジ袋を両手にエレベータへ向かうと、動いていない。19階までの階段はきつかった。着ていたトレンチコートの暑くて重いこと。

非日常の事態になると、普段は気にも留めずに当たり前にしていることの多くが不能になる。能登半島で今も続いていることがそれだ。オフィスに着くと、「高橋さん、ご無事で良かった」「心配していました」「本社で連絡が取れていないのは3人だけだったんですよ」と言われ、苦笑する。

デスク上の物はすべて床に散乱し、隣の経理本部の大金庫すら数メートル動いたそうだ。オフィスに居た者の方がどれほど怖かったことか。散髪していたなどと言えるはずもない。その晩は多くの社員が会社に泊まることとなり、私はそれを届けて大井町のアパートまで歩いた。

大井町の中華食堂は営業していた(後に中国人従業員が帰国して休業)。7畳と3畳のアパートの壁は板で自作した本棚で覆われていたが、一部の本が落ちていただけ。壁に釘付けしないちゃちな作りが、むしろ「ラーメン構造」の役目を果たしたのだろう。翌日からはほぼ日常に戻った。

■ 慎太郎の涙
さて、冒頭に紹介した北村滋は、安倍内閣で国家安全保障局長や内閣特別顧問を歴任した、元総理の知恵袋の一人として知られる人物。3・11当時は警察庁警備局外事情報部長として、菅直人内閣の対応に懸念を抱く米国NRC(原子力規制委員会)のカウンターパートとして奔走した。

NRC最大の懸念は、福島三・四号機の「核燃料プールの水がなくなり、燃料が溶け出して高濃度の放射線物質が外に放出される」こと。17日には陸上自衛隊のヘリが3号機に放水を行い、午後にも警察のデモ対策用放水車が放水したが届かなかった。米軍による放水も見送られた。

残る一手は、「大規模火災等に対応可能な東京消防庁のハイパーレスキュー(消防救助機動部隊)」の出動だった。北村は、安倍元総理、菅元総務大臣ら数名に電話を架けまくる。すると折り返し安倍元総理からこう返信があった。

「石原都知事に電話をして直接お願いしたよ。何のこだわりもなかった。快諾だったね。放水車はなるべく早く出動させると言っていた」

斯くてハイパーレスキューが出動し、19日未明から放水作戦を敢行した。この作戦の効果がどれほどあったかどうかは問題でない。無事帰還した隊員を石原都知事は涙ながらに労ったが、国のため、国民のため、そして何より家族のために、与えられた職務を遂行するプロ意識こそ尊い。

3・11には吉田所長以下のいわゆる「フクシマ50」に纏わる感動的な話と、それを歪曲報道して謝罪・取り消した朝日新聞の堕落振りなどを含め、数多くのエピソードがある。それこそ人の数だけ感慨深い物語があるだろう。私の一番は慎太郎の涙だった。

    ▶私の3・11(高22期 高橋 克己)” に対して2件のコメントがあります。

    1. 加藤麻貴子 より:

      もう13年になるのですね。二人目の孫が生まれたときでした。3月半ば過ぎの予定日が2月末に出産し震災前で良かったと思いました。埼玉在住だったので横須賀に比べると揺れは激しかったはずです。産後の手伝いで横須賀と埼玉を行ったり来たりの生活中で横須賀にいるときに震災を迎えました。直後に家族の無事を確かめ合うとすぐに携帯は使えなくなり、久里浜近辺はすぐに停電したので地震の全容は知らずに一晩過ごしました。その後埼玉にいる時には計画停電で暗闇の中の余震に怯えて過ごしたり、原発のことでペットボトルの水が不足、粉ミルクのための水を探して何件もスーパーを回ったことを思い出しました。
      昨日は民生委員協議会で14時46分に皆で黙とうを捧げました。

    2. 高22期伴野 明 より:

      3・11には皆さんそれぞれ思いがあるでしょう。特別コーナーを作ったらどうでしょうか?
      今年は年初に地震があった故、特にそう思います。地震に絡んだ思いがけない事件も勃発しました。政治的な事も含めて「日本人に対する警告」と捉えるべきではないでしょうか?

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