▶同窓会研究「朋友会の歴史・母校創立百周年記念」

平成元年三月に「朋友」三十号が母校創立八十周年記念特別号として発行された。この中に「朋友会の歩み」と題し、副会長堀江三俊氏により戦後の朋友会の歩みについて、安東会長までの歴史が述べられている。堀江氏の記述を引用しつつ、現在までの歴史を辿ってみたい。

■ 記恩ヶ丘移築・整備・記念碑建立

安東重季会長

昭和五十二年七月には中十九期の安東重季氏が会長に推された。氏は湘南菱油に勤務し、既に昭和三十八年から四十四年まで会の本部で庶務・副会長を経験していた。会長になって、早速母校創立七十周年の行事に当たることになった。記念募金も目標達成し、諸行事も全て順調に行えたのは安東会長の常に細やかな心配りと、温かみのある人柄に大勢の会員が信頼を寄せた結果だと思われる。

昭和五十三年六月朋友会七十周年記念式典を挙行、校旗が新調、通用門が設置された。記念事業の一環として、翌年二月、朋友会会員名簿第4版を発行。六月には山口県萩市の初代校長吉田庫三先生の墓所脇に顕彰碑を建立、現地で除幕式が挙行された。

初代校長吉田庫三先生顕彰碑除幕式

朋友会の事業や会員相互の情報を提供・共有するため、会報委員会(中二十四期最上満委員長)を発足させ年二回の「朋友」発行を定着させた。郵便料金高騰(昭和52年一月二十五日、葉書きが十円から二十円に、封書が二十円から五十円に値上げされた)のため、全会員に配布することができず、維持会費納入者を優先して会報を配付した。年二回の会報発行の効果のひとつは五十五年度の決算から知ることができる。維持会費収入予算二百万円に対し決算五百三十二万壱千円となっている。これは高校期の会員が維持会費の納入に会報を通じて理解を示した結果と考えられ、将来の会の活動に極めて明るい指標であった。

また、維持会費納入状況等を照合できるように個人カードを作成した。壱万数千人のカードは堀江三俊(中二十八期)氏が中心となり、校内幹事数人と作成にあたった。このカードに維持会費の納入記録や住所変更を記載するための仕事は、なかなか手間のかかることで、堀江氏がこの業務に当たった。会員増も影響し、整理するのが物理的に困難になり、事務局に専任者(高五期石井美代子氏)を配置し、このカード業務を担当してもらうことにした。会報発送作業は校内幹事数人が分担し、住所変更が記載された会員名簿から、各期の名簿のコピーをとり、封筒に宛名を手書きして郵便局に持ち込んでいた。このカード方式は五年続き、現在では、このカードはコンピュータのデータに置き換えられている。

記恩ヶ丘記念碑除幕式

会員数の増加により会報等の郵送作業が従来の方式では、益々困難というか不可能になると思われることから、オフィスコンピュータの導入が検討され、昭和六十年に導入された。データ入力は、朝早く来て学校業務の始まる前と業務終了後夜九時頃まで、加藤勤(高一期)氏を中心に校内幹事数名で行われた。一年余の歳月をかけて一万七千名の全会員のデータ入力は完了した。このデータは会員名簿発行のときの原稿となるもので、住所、職業、最終学歴、勤務先、電話番号が入力された。

朋友会として、創立以来の様々な資料を学校側からの協力を得ながら収集、整理、保存し、将来は資料館のようなものを作りたいということから、資料委員会(中三十期白根貞夫委員長)を発足させた。校歌にも歌われている記恩ヶ丘を整備し、OB、在校生の憩いの場として整備したいということから記恩ヶ丘整備委員会(中二十五期関尾秀一委員長)も発足させた。

校長顕彰碑

昭和六十二年に「母校創立八十周年朋友会記念事業」は、以下の一から十一までの事業 一.朋友会記念総会・懇親会 二.記恩ヶ丘移築・整備・記念碑建立 三.母校新体育館の緞帳寄贈 四.母校へピアノ寄贈 五.記録ビデオの製作・寄贈 六.吉田庫三文庫目録の発行 七.会員名簿の発行 八.会報特別号の発行 九.記念・萩墓参旅行協賛 十.吉田松陰墓地付近整備 十一.母校OB美術家展協賛が計画された。

同年九月に会員への記念募金趣意書の配付と共に募金活動を開始し、昭和六十三年五月には記恩ヶ丘が移築整備され、記念碑を建立し、同年七月に母校創立八十周年記念総会・式典・祝賀懇親会が会員四百五十名の参加をみて文化会館で挙行され、母校へ記念品(グランドピアノ、緞帳一式)が贈られた。昭和六十三年三月会員名簿(名簿発行委員長は中二十八期堀江副会長)が、また同月朋友特別号が発行された。同じく、三月に萩墓参記念旅行が実施され、堀江副会長以下十二名が参加、二泊三日の旅だった。はじめにきちんと整備された吉田校長と維新の方々のお墓に詣で、萩市長に面会、萩宿泊の後、津和野・山口へも足をのばした。

■「吉田庫三蔵書目録」三年がかりで平成五年三月に完成

堀江三俊会長

平成元年六月には中二十八期の堀江三俊氏が会長に推された。氏は昭和二十一年四月から昭和六十年までの三十九年間母校に在職し、物理・化学担当として教壇に立ち、豊富な専門知識と独特な話術から生徒に慕われた。教壇から離れ引き続き母校で教頭となり、教育環境の改善に貢献された。母校在職中は校内幹事、副会長として母校と朋友会の双方を熟知した豊富な知識を持って歴代会長を支えてきた。そのような実績から、朋友会にはなくてはならない存在、生き字引として、会員から信頼を得て会長になり、母校・明友会・PTAとの連携もより密に保ち、朋友会の活性化と発展に努めた。当時、朋友会総会は母校C棟五階の視聴覚教室で行われ、中学期の年配会員からは階段を上るのが非常に難儀で、エレベータをつけて欲しいなとの話題も出た。総会後の懇親会は構内幹事が中心になって会場を準備し、一階の校内食堂で行われた。副会長時代に計画された「母校創立八十周年朋友会記念事業」は会長在任中の平成五年五月までにその全てを完了させた。

母校OB美術家展は平成二年五月協賛実施。記録ビデオの製作は「記恩が丘に我らつどひぬ‐母校創立八十周年記念‐」と題して、母校の変遷・朋友会の歴史・現在の生徒の授業・体育祭・文化祭の模様などが盛り込まれた約二十八分のビデオテープで、平成五年一月に完成し、会員にも頒布された。

母校視聴覚室で総会

吉田庫三文庫については母校の国語科準備室に保管されていた「吉田庫三蔵書」三千冊に、貴重な文献や漢籍・国書などが多数あることが判明。これを最上顧問(中二十四期)が責任者となり、堀江会長が率先して編集に携わった。監修には太田次男氏(中二十四期)の紹介により、大沼晴暉氏(慶應大助教授)、神鷹徳冶氏(帝塚山学院大専任講師)の御二人により遂行、体系的に整理され、「吉田庫三蔵書目録」が三年がかりで平成五年三月に完成した。朋友会の貴重な財産として保管するだけでなく、目録は県立、市立の図書館等の他、萩市の関係機関にも寄贈された。

将来の会員増加や従来の住所管理や宛名ラベル打ち出し以外に、会員への新しい形態のサービスを提供したり、多岐にわたる情報整理、事務管理をより適確に行い、事務効率化を図るため、平成三年七月、容量不足で老朽化したコンピュータを更新した。

■ 朋友会費と会則の改定・朋友会会員名簿(第七版)発行

白根貞夫会長

平成五年六月には中三十期の白根貞夫氏が会長に推された。氏は横須賀工業振興協同組合の事務局長であり、昭和五十年から朋友会副会長としても活躍され、母校を外部からの幅広い視点から捉え見ることで会長を支えてきた。

資料委員会の初代委員長を務め、会員から有形無形の資料を収集し整理に当たった。文化・歴史に造詣が深く、毎年、親睦委員会が計画する「史跡散歩」(横須賀はもちろんのこと、鎌倉や東京まで足をのばした)には会長自ら資料を作成し、ガイド役をこなし、その博識に会員は脱帽した。会長就任時「古き伝統に新しき息吹を吹き込んで、今後の朋友会の発展に微力を尽くしたい」との挨拶を述べ、既存の委員会の活動内容ならびに構成員などを見直し、組織委員会(高十一期小室嘉生委員長)と名簿委員会(高一期加藤勤委員長)を追加発足させた。

白根会長時代に、朋友会費と会則の改定の問題が発生した。森田正巳氏(高四期)が委員会の長となり、この二項を主として討議を進めていった。会則の主な変更点は、一.名誉会長に現横須賀高校校長を当てる、二.役員を範囲も明記、三.朋友会の入会金及維持会費の変更が主で、従来の二十六条を十八条とした。平成六年の総会で可決された。

組織委員会はクラブOB会名簿を整備し、部活関係の繋がりを起点とし、会員の若い期から古い期までの縦の繋がりの強化を図った。名簿委員会は校地内にプレハブの事務所を設置、常駐事務所員を三名置き、会員からの連絡に対応したり、資料整理の作業を行い、二万四千名の会員を収録した朋友会会員名簿(第七版)を平成七年に発行した。現在この版が最新版となっている。

セミナーハウス「記恩館」

平成六年七月、セミナーハウス「記恩館」完成に伴い、明友会と協力しビデオ映写装置一式を寄贈した。平成七年の新年拡大幹事会を和室で、懇親会をセミナーホールで実施した。この席上、白根会長から阪神大震災に対する募金の呼びかけがあり、寄付金が参加会員から集められ、朋友会基本基金からの特別支出を加え、朝日新聞厚生事業団を通じて被災地へ贈られた。

かねてから紙面の文字が読みにくいとの批判に応え、この年発行の「朋友」四十三号から活字構成を今までの一行二十字を十六字に減らし、行間も広げて読みやすくした。

■ ノーベル物理学賞受賞記念祝賀会

遠藤正敏会長

平成九年六月には高四期の遠藤正敏氏が会長に推された。氏は、これまで監事として朋友会に、PTA会長として母校に貢献してきた。日常は弁護士として活躍され、明快で論理的な運営には、役員及び校内幹事はもとより多くの会員から信頼を受けた。

導入してから七年が経過したコンピュータは二千年問題も解決させることを含め、平成十年七月に更新された。
高校期の若い世代の会員が朋友会への関心を高め、会員相互の連携を一層強化するため、ホームページ委員会(高九期里見絢子委員長)を発足させ、朋友会ホームページが開設された。これを期に、会員の住所変更や改正は葉書や電話に変わってメールでの申告が多くなった。事務局からの返信もメールで容易にできるようになったことは、会員との情報交換を容易にし、相互理解に大いに役立つこととなった。なお、ホームページの公開は平成十三年九月一日で、平成十八年九月には十万件の訪問件数を達成した。

小柴さん講演会

活字が小さいとの指摘が寄せられていた会報は、紙面を見易く読み易くするため、五十三号から紙面をB5からA4に拡大変更し、活字も大きくし、一段十六字三十五行を三十七行に改め、青と黒との二色刷りとした。
母校創立九十周年記念を祝い、平成十年十一月、記念式典(朋友会員を含め千五百名が参加)が横須賀芸術劇場で、記念祝賀会が横須賀プリンスホテルで開催された(会報五十号に詳細)。他の記念事業として、生徒用ロッカーの購入、母校創立九十周年記念誌発行が挙げられ、基本金会計から三百万円が拠出された。

講演祝賀会

小柴昌俊氏(中三十二期)が文化勲章受賞、ノーベル物理学賞受賞、それぞれの祝賀会を平成十年と同十五年の新年懇親会に合わせて開催した。文化勲章祝賀会は二百名が集まり、小泉純一郎厚生大臣(高十二期)も駆けつけ賛辞を呈し祝い、会長により朋友会からの記念品が贈呈された。ノーベル物理学賞受賞祝賀会は三百三十名の会員が集まり、文化勲章祝賀会に勝る盛り上がった祝賀会となった。(会報五十八号に詳細)。この間の平成十三年小泉純一郎氏(高十二期)が総理大臣に就任、朋友会総会の席上で「お祝いと激励の言葉」を贈ることになり、会長が会員一同を代表して弟の小泉正也氏(高十五期)に言葉を託された(総理大臣就任「朋友」特集号詳細)。

■母校創立百周年・第一回青春かながわ校歌祭

元文伊千夫会長

平成十五年六月には高六期の元文伊千夫氏が会長に推された。氏は診療所を開業し、地域の医療活動に貢献されている。朋友会副会長、組織委員長として朋友会活動にかかわり、若い会員の掘り起こし、会員のより強固な結束、母校生徒へのより一層の援助活動を強調してきた。平成四年、同期の野村昌男氏が母校校長として就任されたのを機に、母校の教育施設拡充に高六期独自の貢献をした。会長就任後、母校創立百周年朋友会準備委員会(高六期野村昌男委員長)を発足させた。この委員会は「母校創立百周年記念事業実行委員会(朋友会実行委員会)」に改称され、総括実行委員長に高四期服部眞司氏が就任し、事業の検討、記念募金の活動を開始した。ホームページ委員会は記念事業の進捗状況を会員にリアルタイムで提供するため、百周年記念ホームページを開設し、朋友会ホームページにリンクさせた。

平成十七年度基本会計から、母校創立百周年記念事業実行委員会へ一千万円を拠出した。平成十年に更新したコンピュータシステムは、オペレーティングシステムのサポートが打ち切られたことを契機にして、会員管理システムの更新委員会(高五期幸嶋孝治委員長)を発足させ、平成十七年にコンピュータ機器と会員管理システムを更新した。

青春かながわ校歌祭

平成十七年の個人情報保護法の施行に伴い、個人情報保護法に対応する委員会(高11期小野関浩委員長)を発足させた。母校創立百周年にあわせて朋友会会員名簿の発行が検討されたが、個人情報保護法の施行や、個人情報の悪用が懸念されることから、名簿発行は見送られることになった。

神奈川県下の他校との交流と会員相互の親睦を深めるため、かながわ校歌祭委員会(高4期三澤岑委員長)を発足させた。平成十八年十月第一回青春かながわ校歌祭に県立高校二十二校が参加、我が横須賀高校朋友会は第一回のトップバッターという記念すべき役割を演じた。(会報「朋友六十六号」に詳細)。

朋友会の沿革
明治40年 8月 8日 「神奈川県立第四中学校」設立認可
明治41年 4月14日 第1回入学式挙行
大正 2年 3月25日 第1回卒業式挙行、卒業式と同時に朋友会を設立、初代会長に吉田庫三校長が就任された。以来会長には校長を推戴することに決した
大正 2年 4月1日 「神奈川県立横須賀中学校」と改称
大正 4年 8月18日 朋友会会誌「朋友」第1巻発行
昭和 2年 5月20日 「朋友」改め「横中学報」第1号発行、「朋友会名簿」第1回発行
昭和17年 「横中学報」「朋友会名簿」発行以後大東亜戦争となり、物資不足のため中止された
昭和23年 4月 1日 学制改革により「神奈川県立横須賀高等学校」と改称
昭和23年   大津グランド野球練習場にバックネットその他が作られ朋友会より拠金
昭和23年10月20日 創立40周年総会(於母校講堂)にて以後会員の中から会長を推薦するに決した
昭和25年 4月 1日 男女共学を実施
昭和25年 8月 朋友会会員名簿発行(戦後第1版)
昭和28年 図書館新築のためPTAと共に朋友会も参加して募金した
昭和32年 2月 朋友会会員名簿発行(第2版)
昭和33年12月 1日 朋友会50周年記念式典挙行
昭和34年 2月23日 初代吉田庫三校長胸像除幕式
昭和37年12月 母校体育館兼講堂建設に協力した
昭和39年 3月 1日 朋友会会員名簿発行(第3版)
昭和41年11月 1日 「朋友」復刊第1号発行
昭和43年 6月23日 朋友会60周年記念式典挙行 来賓参加約600名、校名入りブロンズ取付け正門完成、記恩ケ丘整備
昭和46年 3月 1日 朋友会会員名簿発行(第4版)
昭和48年11月11日 初の「高校期の集い」開催
昭和49年 6月 2日 維持会費制度発足
昭和53年 6月25日 朋友会70周年記念式典挙行 校旗新調、通用門設置
昭和54年 2月11日 朋友会会員名簿発行(第5版)
昭和54年 6月 4日 山口県萩市の初代校長吉田庫三先生の墓所脇に顕彰碑を建立
昭和55年 7月 会報委員会発足
昭和56年12月 3日 資料委員会・記恩ケ丘整備委員会・親睦委員会発足
昭和58年 6月 母校創立75周年記念に朋友会より視聴覚教室にビデオプロジェクター寄贈
昭和59年11月 朋友会の事務能率化のため、事務局にオフィスコンピューターを設置
昭和61年12月 名簿発行委員会・総務委員会発足
昭和62年 9月 1日 母校創立80周年記念募金活動開始
昭和63年 3月20日 朋友会会員名簿発行(第6版)
昭和63年 3月31日 記恩ケ丘移転整備に伴い記念碑建立
昭和63年 6月 4日 新記恩ケ丘記念除幕式挙行
昭和63年 7月10日 母校創立80周年記念式典開催
平成元年 3月25日 「朋友」母校創立80周年記念会報特別号発行
平成 3年 7月 コンピューター新機種に更新
平成 4年 9月 新卒会員の終身会費3年間で総額3,000円に改訂
平成 4年10月30日 旧記恩ケ丘跡地記念碑完成
平成 5年 5月 母校創立80周年記念「記念ビデオ」「吉田庫三蔵書目録」完成、配付
平成 5年10月 組織委員会・名簿委員会発足
平成 6年 6月26日 維持会費現行年額1,000円を1,500円に改訂 会則改正
平成 6年 7月16日 セミナーハウス完成に伴い、明友会と協力、ビデオ映写装置一式寄贈
平成 7年11月30日 朋友会会員名簿発行(第7版)
平成 8年 9月 名簿購入者全員に名簿訂正版を発送
平成 8年12月 記恩ケ丘樹木伐採整備
平成10年 1月24日 小柴昌俊氏(中32期)文化勲章授章祝賀会開催
平成10年 7月 コンピューター新機種に更新
平成10年11月14日 母校創立90周年記念式典開催
平成12年 7月 ホームページ開設準備委員会発足
平成12年 9月 1日 会報「朋友」53号から紙面および活字の大型化と黒・紺の2色刷り化実施
平成13年 7月 6日 ホームページ委員会発足
平成13年 9月 1日 小泉純一郎氏(高12期)総理大臣就任「朋友」特集号発行
平成13年 9月 1日 ホームページ開設
平成15年 1月19日 小柴昌俊氏(中32期)ノーベル物理学賞受賞祝賀会開催
平成16年 7月 会員管理システムの更新委員会発足
平成16年10月 母校創立100周年朋友会準備委員会発足
平成17年 5月 個人情報保護法に対応する委員会設立
平成17年 9月 コンピューター会員管理システム更新
平成18年 6月 母校創立百周年実行委員会担当委員会へ事業費として朋友会より拠金

総務委員長 (高十二期)山本誓一 (二〇〇七年九月記)

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