「梅城遺稿を読む」

■ はじめに

「梅城遺稿」は吉田庫三先生の教え子(子弟有志者)が先生が残された漢詩などをまとめたものです。この和本は、1926(大正15)年12月15日に大阪の共立印刷所という所で出版されたものです。3年前の関東大震災で関東の印刷所は壊滅的な被害を受けたため、関西の印刷所で作られたそうです。梅城(ばいじょう)とは、吉田庫三先生の雅号です。(高25期 廣瀬隆夫)

 

以下は「朋友」誌78号の若杉さんの記事からの引用です。

中学6期生の今井兼次氏は、「朋友」誌14号を庫三先生の追悼号として編んだが、これまで先生の著作とされるまとまった一冊もなく、あったものは、すべて遺筆の断簡や詩文であった。「文質彬々」たる先生の遺著は是非残すべきだと考えたから翌年の秋にはできる予定であった。今井兼次氏は同期の伊東敏三郎氏らに相談し、「梅城遺稿」として編纂した。

■ 文質彬々について

「梅城遺稿」には、もう一つ、琢堂(たくどう)という方が書いた揮毫(きごう、言葉)があります。揮毫は「文質彬々」とあって、論語にある言葉です。

ここで、論語の話を紹介します。
その時期、孔子には何千もの生徒がいたというが、みんな出世がしたく、知識さえあれば官僚になれた時代であったから、生徒は孔子に何か一つ教えて欲しいと頼んだ。
「そうか、子曰ク、其の道不知、学ぶに如かず、ではどうか」
「どのような意味ですか」
「それを考えるのが道だ、ということじゃ」
知識だけでは駄目だということを、孔子は教えたかったのです。

漢学者の加地伸行氏は、「文質彬々」についてこんな解説をしています。
「文質彬々として然る後に君子たり」と論語(雍也第六)にある言葉。「質(しつ)は、本質・素質をいい、文(ぶん)は、文飾即ちそこから外観の意。史(し)は長い記録。彬彬は、異なるものが、ほどよく混じりあっている様子。全体的な意味としては、内容と外観との調和がとれてはじめて教養人(君子)となるの意。(加地伸行著「論語」による。)

「琢堂」(たくどう)という雅号は、維新後の毛利家2代目の当主「毛利元昭公」が使用していたものだということが分かっています。

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