▶台湾の結婚式:ちょっとイイ話(高22期 高橋 克己)

還暦を過ぎた2011年末、台湾子会社に出向したことは「私の3・11」に書いた。設立14年、従業員150名ほどの半導体材料会社の董事長だった。日本でいう会長だが、名誉職だから実権はなく、指揮命令は本社の統括役員から総経理兼工場長に行く。そこで専ら日本人会とロータリークラブに勤しんだ。

ある日、設立からのベテランで日本語も上手い劉女史(製造部長)が部下の結婚式に出て欲しいという。名誉職の本務でもあり快く引き受けた。紅包(ホンパオ=祝儀)の額を相談すると、末広がりの「八」が良いというので、8800元(約2.5万円)包むと多過ぎると。新郎の月給は5万元ほどだった。

斯くて当日、古いが広いホテルのフロアには丸テーブルが20余り。驚いたのはほとんどが平服(ポロシャツ+Gパンなど)で、集合時間も終了時間もかなり適当なこと。三々五々集まって席に着き、料理や飲み物を摂って、なかには帰ってしまう者もいる。「へーっ」と感心していると私の祝辞だという。

劉さんが横で私の話を端から通訳してゆく。どうにか終わって席に戻るが、後が続かない。何と私が主賓で祝辞も私だけだと。「聞いてないよ」という私に劉さんが、「新婦が40歳なので子供はつくらないらしいですよ」と追い打ち。「で、通訳したの?」と私、「はい」と劉さん。

それも聞いていない私は、「両家のご両親に早くお孫さんの顔を見せて、親孝行して下さい」と二人に述べていたのだ。数ヵ月して私は帰国し、会社もリタイアした。劉さんも程なく退社し、個人で通訳と翻訳を始めたとLINEして来た。偶に添削の相談があり、日本語の「てにをは」は難しいとこぼす。

関連して少し横道に逸れる。劉さんは50代半ばでご主人は日系企業の支店長、子供もなく裕福なのだろう。退社した後に寿山扶輪社(私が入っていた日本語だけを使う日本統治世代のロータリークラブ)に入会した。月に4回、国賓大飯店で食事をしながらの例会があり、年に10万元(約30万円)ほど掛る。

毎回する一口5百元(当時のレートで約15百円)寄付を原資に、奨学金を出したり、献血車を寄付したりする。劉さんが日本に留学できたも扶輪社の奨学金のお陰だそうで、お返しの意味で寿山扶輪社に入ったと。留学前に国民党に入党していたが、日本で2・28事件のことを知って抜けたそうだ。

私の扶輪社経験も1年だったが、中国鋼鉄元董事長や台湾水泥元副総経理、台湾五大家族高雄陳家の末裔など私の親世代の名士や、日本人では日本人学校長や交流強化高雄事務所長らと懇意になった。前者からは国民党軍を高雄港で迎えた様子(うらぶれた国民党軍と凛として出迎える日本兵)も伺った。

閑話休題。帰国後1年ほど経ったある日、劉さんからLINEが入った。なんと「董事長が挨拶でおっしゃった通り、二人に赤ちゃんが生まれたんですよ」と書いてある。事情を知らない私の弁に応えようと、新郎新婦が計画を変更して頑張ったのだろうか。すごくイイことをした気分だった。(おわり)

    ▶台湾の結婚式:ちょっとイイ話(高22期 高橋 克己)” に対して4件のコメントがあります。

    1. 加藤麻貴子 より:

      綺麗な新婦さんですね。ベトナムの結婚パーティーも親族以外の出席者はほとんど平服でした。タイの留学生の結婚式・パーティーもおおよそが平服の人たちでした。そして始まりと終わりがはっきりしていませんでした。でも、お子さんに恵まれて良いスピーチをしたのですね。

    2. 高橋克己 より:

      当日は新婦さんのお顔を繁々と見る訳にいきませんでしたが、写真を見ると実に美しい。
      ベトナムもタイも台湾同様ですか、ところ変われば品変わる、堅苦しくなくてイイネ。

    3. 高22期伴野 明 より:

      イイ話ですね。写真を拝見すると、皆さんの表情から、私なりの(アマチュア小説家としての)感想が浮かびます。あくまで少々変人である私の感想ですので失礼をお許しください。
      右から--新郎--「もう、これ以上無いほど幸せ♡♡]
      -----新婦--「しっかりしないと……」
      -----母?--「よかった、これで安心」
      -----克己さん「堅苦しくなくてイイネ」
      -----後の男性「うまくやったナ、オレだっていつかきっと……」

    4. 高橋克己 より:

      伴野さんへ  「母?」ではなくて、彼女が私の祝辞の通訳をしてくれた「劉春恵」さんです。

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