▶今改めて“Less is more.”(高22期 高橋揚一)

バブル下降期に記した拙文を再掲いたします。(高22期 高橋揚一

旅先で触れる他人の情けに安堵することがしばしばある。ヨーロッパの街角で地図を開いていると、地元の人が寄って来て、時には道案内もしてくれる。一方、こちらが訪問者だとわかるはずなのに、初めての土地で道を尋ねられることも少なくない。出会いや別れの時には、知らぬ同志さえ必ず挨拶を交わす。

鉄道の駅や車内でよく見かける光景がある。重い荷物を持った乗客が長距離列車に乗り込む際のドラマである。向こうではホームが概して歩道程度の高さしかない。そこから蹴上の急なステップをよじ登るのは健常者でも骨が折れる。ところが多くの場合、近くに居合わせた人が寄って来て、荷物を上げるのを手伝い、デッキからは手が差し延べられる。そんなことをきっかけに車中の会話は盛り上がってゆく。下車の時には手ぶらで降りて、偶然の同室者の計らいで窓からホームへと手渡しで荷物が降ろされることもある。

このような場面は、日本ではほとんどあり得ない。誰の力も借りずにスムーズに乗降できるように、列車の床に合わせてホームが設置されているからだ。身体障害者や高齢者に対して福祉施設が抜かりなく整えられるようになったものの、それだけに人々が互いに協力し合えるような気質の養われるきっかけが置き去りとなった。大震災で被災して協力し合う心を改めて知ったとの声も多い。不測の事態での不備な状況におよんで初めて実感を持つほどに、日常生活は、一見便利で快適な装置や洗練された表層で埋めつくされてしまった。

のちにモダニズム建築家の巨匠と呼ばれたルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ。往年の逸材がベルリンの建築設計事務所で修行をしていた頃を回想した告白話がある。任された工場計画のアイデア・スケッチを徹夜で大量に描いて、得意満面に提出した際の上司の一言が自分を開眼させたという。その時の言葉が「レス・イズ・モア」である。
名言は彼の実践に奮起を与え、ミースの常套句として建築界に広まっていった。ただ、時代が技術や経済の発展途上にあったせいか、合理的で効率良い形態を導く教えとして通常は解釈されている。鉄やガラスやコンクリートによるシンプルな箱型建築が、モダニズムの究極として崇拝され、創造活動での価値判断や美意識を長年呪縛し続けた。

建前からの解放には、半世紀が費やされた。アメリカの建築家ロバート・ヴェンチューリは、裸の王様を前にして叫ぶ子供のように、いとも簡単に「レス・イズ・ボア」と言い放った。フロンティア精神とプラグマティズムが築き上げた物的文明の豊饒な世に慣れ親しむ人々の気質からすれば、より少ないことは退屈(bore)との烙印を押されたミース流のモダン建築は、恐ろしく無味乾燥なものとして映ったに違いない。こうして狭小なモダニズムは解体へ向かい、普遍的正当性への期待に眩惑されることのない多種多様な表現様式が闊歩する時代となった。

確かに、科学技術の先行する秩序を妄信し、品行方正な禁欲主義に無自覚となった独善性からの脱皮を導く大役を、ポストモダンは演じてはいる。しかし、その先には物的文明の過剰な生産と消費がもたらす虚栄に満ちた物欲へと陥る道筋のみが待ち受けていた。

果たして、日本のポストモダンは模倣に始まった。これを戒め、日本の造形言語を多用した表現を模索する建築家も現れた。ポスト・アメリカンと称して和風への回帰を唱え、温泉地の色めき立った遊郭のような町役場などを実現させたが、そのありさまは異形である。かたちだけの和風では、モダン〜ポストモダンの地平からの解脱はあり得ない。

ところで「レス・イズ・モア」とは矛盾ではないか。合理志向には似つかわしくない。禅の公案にも通じる深い価値が潜んでいる。ミース自身の自覚はともかく「スモール・イズ・ビューティフル」や「シンプル・イズ・ベスト」とは桁が違う。禅の表現には、滅筆の水墨画や俳句、借景庭園や茶室など、人為の媒体をより少なく抑えることによって、より深い解釈を待つレトリックの効果があった。周辺では、手と一体となって初めて機能を果たす箸が残る程度だろうか。

かつて上水道の不備な時代に共同井戸へと集まった井戸端会議には、近隣との気さくな交流を円滑に保つ役割があった。私たちは、便利で快適な装置や洗練された表層で埋めつくされた一見安泰な日常を無防備に甘受しているうちに、東洋文化の叡智を忘れてしまった。ありすぎの弊害に翻弄される巷を離れて旅をして、すべての手本であったはずのヨーロッパにて、ないことの豊かさに出会うとは皮肉な因果である。

※ 月刊『言語』大修館書店1995年10月号pp.6f巻頭エッセイ(一部改稿/写真は別途撮影)

    ▶今改めて“Less is more.”(高22期 高橋揚一)” に対して2件のコメントがあります。

    1. 高橋克己 より:

      示唆に富む論考ですね。冒頭の三文説、私は日本のガラパゴス化を想いました。至れり尽くせりを追求するあまり、過剰機能かつ高コストになって衰退した携帯電話に象徴される日本と日本人の過剰な気遣いのことです。
      10年前の800万人から、今や5倍に膨れ上がる訪日外国人とって、その親切丁寧さは新鮮に映るのでしょう。が、定住する我々までがそれに漬かってしまい、日本人に元々備わっている自助・共助の心を忘れて、公(民業を含む)に求め過ぎるのは良くないですね。

    2. 高橋揚一(高22期6組大西昭先生学級) より:

      コメント有難うございます。
      29年も前の論説でしたが、敢えて再掲することにしました。
      私流記号論からの敷衍です。

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